【1】
昭和6年、古川町内(現・大崎市古川)の資産家である松谷林兵衛氏、三上卯ェ門氏、医師であった大内喜雄氏、古川小学校(現大崎市古川第一小学校)の教員であった早坂宏顕氏、三浦茂男氏など、音楽好きな人達が集まって、楽器(主にマンドリン・ギター・ヴァイオリン)を弾いたり音楽を鑑賞したりしてグループを作ったのが、古川マンドリンクラブのはじまりである。

【2】
昭和7年の11月、古川小学校講堂で第1回和洋音楽会
【写1】 が、楽洋会(会長、医師里見勘四郎氏)の主催で開催された。そのプログラムの中にマンドリン二重奏や独奏、又、ギターやヴァイオリンの独奏があり、高いレベルの曲が演奏された。さらに昭和9年の11月には、第3回音楽会 【写2】 が同じく古川小学校で開催され、和楽、洋楽と多種多様なプログラムであった。マンドリン合奏やマンドリン独奏等もあり、とくに合奏は、マンドリン1・2、マンドラ、マンドセロ、ギターという編成で、曲もマンドリンオリジナル曲、クラシックの名曲の中からと、相当レベルの高い曲が演奏された。出演された方々の名前はプログラムにはなく、詳細なことはわからないが、古川の十日町で少年時代を過ごし、後に朝日新聞社古川支局の記者となった近藤善兵衛氏や早坂宏顕氏が中心となって、合奏を編成されたと思われる。
当時、大阪や東京といった中央とのつながりもあったようで、大阪市にあるプレットロ楽譜交換会から送られた会報や楽譜などもみつかっている。
(2011年1月1日発行、大崎タイムス社)

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【3】
昭和9年、近藤善兵衛氏(後に北海道支局に転任しアイヌ音楽の権威者となる)の音頭によって、マンドリン・ギターの同好者が集まって合奏を楽しむグループができ、「古川マンドール」が発足した。松谷林兵衛氏(後列中央)が会長となり、古川音楽協会を結成し、音楽(和楽・洋楽)は活発に行われた。
【写3】

【4】
昭和12年日中戦争が始まると、出征家族の慰安会、工場慰問、傷病兵慰問等が多くなり、またJOHK(現NHK仙台放送局)からのラジオ放送など、多忙な時代であった。
この頃から名称も古川マンドリンクラブとなり、松澤兄弟や大内信雄氏、千葉善造氏、小林次郎氏なども参加していた。
昭和18年頃から、会員の中から出征者が出てきて一時グループとしての活動は休止の止むなきに至ったが、松澤靖夫氏等が戦地慰問に中国に出かけたりした。

【5】
終戦を境に、古川に疎開していた作曲家の安部盛氏、声楽家の石川百合氏(宮城学院大学・音楽科教授)のもとに、多くの会員が集まって、昭和20年には古川音楽協会が再結成された。安部盛氏は、音協・マンドリン部の指揮者として、石川百合氏は、音協・混声合唱の指揮者として、それぞれ演奏会を開催した。又、合同演奏会も、古川高校・講堂や、古川座などを会場にして盛大に開催された。 さらに、中央から著名な演奏家を招きコンサートを開催。又、マンドリン部は、JOHK(現NHK仙台放送局)からラジオ放送「お昼の音楽」の番組に幾度となく出演し、放送されたのもこの時代である。

【6】
安部盛氏や石川百合氏が古川を離れると活動も低調になり、音楽協会も自然になくなったが、その後、シベリア抑留から引き揚げてきた千葉善造氏や早坂宏顕氏などが中心となりグループを結成、ラジオ放送や、いろいろなイベントなどの演奏に出演し活躍した。昭和24年からNHKの楽員(サックスホーン奏者)であった斎藤佐氏が、そのグループの指導者となった。

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【7】
昭和33年7月、伊藤孝夫氏、武田惣三郎氏、岩渕徳哉氏、小林次郎氏、杣木晴喜氏他に若い会員も加わって、名称もFBC(フルカワ・ベレー・シャルム)アンサンブルとし、会長には伊藤孝夫氏がなり、指揮者に、斎藤佐氏、事務局を公民館に置き、定期演奏会
【写4】 をはじめ療養所、病院などの慰問演奏を活発に行った。昭和35年に、会長は、岩渕徳哉氏になり、ハワイアンバンド、タンゴバンドなどのポップス系の演奏も活発にとり入れると同時に、難解なオリジナル曲にも積極的にとりくみ好評を博した。又、NHKの仙台放送局合唱団で活躍していた上野京子氏が入会し、演奏に一段と彩りを添えたのもこの頃である。その後、何年間かの空白期間があったが、後援会長大内信雄氏の支援もあって会員が再び結集し、会長に千葉善造氏がなり、とくに、古川高校や古川女子高、古川中学校などの各校のマンドリン部の創立に力を尽くした。又、一般を対象とした指導にも力を入れた。
昭和44年、常任指揮者であった斎藤佐氏が亡くなられた後、鹿野貞三郎氏がアンサンブルの指揮をした。定期演奏会にはPTAコーラスや、ボーカルグループなどのゲストステージをもうけて、さらに充実した演奏会となった。
(2011年1月1日発行、大崎タイムス社)

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【8】
昭和50年、再び古川マンドリンクラブと改称して、後援会長であった大内信雄氏が会長に、常任指揮者として中本義弘氏を迎え、一層の発展と充実を期して新しいスタートを切った。
年一回の定期演奏会はもちろん、市民文化祭への出演、民間放送局のテレビ出演、市内各中学校マンドリン部への指導と多彩な活動を続けた。
昭和56年、マンドリンクラブ創立50周年を祝って、多くの来賓を招待、戦前からこのクラブにかかわっていた方々も多数出席され、演奏会を兼ねて、古川十日町にあったゴールデンパレスで祝賀会を行った。
【写5】 その時、はじめて賛助出演を芙蓉会コーラス(古川ロータリークラブ夫人の会)に依頼した。以来、平成18年まで26年間続いた。
昭和52年には、世界的に有名な日本が誇るマリンバ奏者、平岡養一氏との共演が市民会館で開催されるという、画期的な出来事もあった。

【9】
日本マンドリン連盟東北支部の合同演奏会の第1回は、昭和51年9月、仙台の電力ホールで開催された。第2回は、昭和56年4月仙台市民会館大ホールで開催されたが、この時から東北マンドリンフェスティバルとタイトルをかえて、以来、隔年各県持ち回りで開催されている。古川マンドリンクラブは毎回これに参加している。
ことに、平成9年の第9回と、平成21年第15回の東北マンドリンフェスティバルは、古川マンドリンクラブが主管となり、大崎市民会館で開催し、大盛況のうちに終了した。
【写6】

【10】
平成4年、青少年の健全育成と芸術文化振興、並びに地域文化の発展のため多大なる功績があったとして、「文化の日」に県教育委員会から教育文化功績賞を受賞した。
【写7】
これを機に、「長年、活動を支えてくれた地域のために」古川中央公民館を会場に、会員のボランティアで、マンドリン教室・ギター教室を開講し、受講者は中学生から60才代まで40名を超え、第1期から第3期まで3年間続けられた。企画は、中本義弘氏が公民館事業係などの協力・支援を得て行い、技術指導は、「大泉貴美子氏、小林次郎氏、岩渕徳哉氏、武田惣三郎氏、渡辺逸郎氏」が、昼・夜2講座に分けて行われた。
又、中学生の指導にも力を入れ、古川中や古川東中がTBC音楽コンクール全国大会にまで出場したのもこの年である。

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【11】
講座終了と同時に、受講生の半数以上はもっと楽器を弾きたいとして、古川マンドリンクラブの会員に所属、会員数は一時50名をこえる大きな団体となった。定演の他にNTTトークコンサートや地域イベントの賛助出演、県ロビーコンサート、ファミリーコンサートなど多岐にわたる活動を開催した。

【12】
平成13年、マンドリンクラブ創立70周年記念コンサートが、会場を古川・芙蓉閣に於いて開催された。演奏された曲は、戦後数多く演奏された曲を選曲して、往時をしのび演奏された。また、記念にCD
【写8】 を作製、多くの方々に配布し好評を得た。 平成16年7月、日本マンドリン連盟東北支部主催によるマンドリン独奏コンクールが、古川・パレットおおさきで開催され、古川マンドリンクラブが中心となりスムーズに運営された。
平成19年、渡辺逸郎氏が、日本マンドリン連盟よりマンドリン音楽普及のため大きく貢献、又、東北マンドリン連盟結成以来、役員として多大な功績があったとして、表彰された。

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【13】
毎年開催されている演奏会もさらに充実し、定期演奏会だけでなく地域のイベントへの参加、古川第一小学校音楽教室、古女高・同窓会、三本木ロビーコンサート、介護福祉施設・百才館、寺法要コンサート、又、NHK仙台放送局よりテレビ“情報パレット”の番組で紹介されたり、県庁ロビーコンサート、県精神福祉センターからの演奏依頼や、幼稚園でのクリスマスコンサート、そしてサロンコンサート等々、マンドリン音楽を通して、地域の芸術文化の発展のために大きな役割を果たした。また、副指揮者としての鹿野貞三郎氏、大泉貴美子氏などが大いに活躍した。

【14】
このような活動のさ中、平成18年1月、昭和50年以来32年間の長きにわたって、古川マンドリンクラブの会長として支えてくださった大内信雄氏の急逝は、クラブにとって大きなショックとなった。「継続は力」をモットーに32年間一度も演奏会を中止することなく、継続されたのも大内氏の支援が大きい。
又、同年6月、FBCアンサンブル以来マンドリンにかかわりをもって歌い続け、ステージ全体に華をそえてくれた上野京子氏も逝去され、演奏会に大変な影響を与えた。
大内会長のあとには、渡辺逸郎氏がクラブ代表となり、さらなる発展を続けている。
平成21年文化の日、常任指揮者としてクラブの指揮をとっている中本義弘氏が、永年にわたって地域文化振興のために尽力されその功績は大として、芸術・文化部門で県教委より、同じ年、市からは教育文化功労賞を受賞した。
翌年平成22年には、日本マンドリン連盟よりマンドリン音楽の発展に寄与したその功績は大として、表彰された。

古川マンドリン70周年記念演奏会

【15】
平成23年、古川マンドリンクラブは創立80周年の年を迎えた。
現在まで演奏会で演奏された曲数は218曲、出演者数は339名にのぼる。(昭和33年~平成3年)
平成4年以降はまだトータルはとってはいないが、おそらく演奏曲数は400曲をこえ、出演者数も500名を越す。このように多くの方々がマンドリン音楽を愛し、心からクラブを愛しつつ関わりをもった。
平成23年3月11日、東日本は未曾有の大災害に見舞われた。ここ大崎も被害甚大なものがあった。会員の中にも家が全壊したり、半壊したり、あるいは一部損壊という大なり小なりの被害を多くの方が被った。
一時、80周年記念演奏会は、「無理」との声もあった。しかし、今この時だからこそ、創立の記念の年を共に祝いつつ演奏会をやろうとの声は、会員一致した意見であった。
古川マンドリンクラブの発展のために、誠意尽くされた亡き先輩や仲間たち、又、この度の大震災で亡くなられた方々の、ご冥福を祈りながら古川マンドリンクラブ創立80周年記念演奏会は、11月6日(日)午後2時より、大崎市民会館に於いて盛大に開催された。
【写9】

【16】
2013年、東日本大震災復興を願い、加美町小野田コンチェルト・ハウスでチャリティーコンサートを開催、その収益を大崎タイムス社を通して寄付をする。
 又、この年、長年にわたり古川マンドリン事務局、そして会長として尽力をした渡辺逸郎氏が体調をくずし会長を辞し、常任指揮者である中本義弘氏が会長を継ぐ。

 次の年、84年にわたる伝統と歴史をもった古川マンドリンクラブに尽された亡き先輩を忍んで、その家族・知人・友人を招き追悼コンサートを開催、往時を忍んだ。
 又、日本マンドリン連盟で発行されるJMAジャーナルで「古川マンドリンクラブのあゆみ」と題して紹介される。

 2015年、第18回東北マンドリンフェスティバルが、山形テルサ・ホームで開催、常任指揮者、大泉貴美子氏がタクトをとり、すばらしい演奏をし好評を得た。
【写10】
その他、大崎市民生委員の大会、大崎敷玉ふれあいまつり、高齢者のつどい2016などに招待演奏をし、活躍した。

 2017年12月、教育文化、音楽普及等に多大なる功績があったとして、会長中本義弘氏が国・内閣府より瑞宝双光章の叙勲を受けた。
この年に開催された第19回東北マンドリンフェスティバルでは、プログラムの最後をかざり、感動的な演奏をし多くの聴衆を魅了しJMAジャーナルでも紹介された。
その後、大崎市ふるさとプラザ・ディサービス、西古川の県施設楽々会館などでマンドリンのなつかしいメロディを演奏しよろこばれる。

 2018年、創立87回を記念し、古川女声合唱団「アイリス」・いきいきハーモニーとの共演、又、オカリナグループ「ホリディ」のゲスト演奏もあり、演奏会は成功裡に終了した。

 クラブは、2020年に90周年を迎え、2021年11月には宮城県庁でロビーコンサートを開催。 【写11】

50年近く常任指揮者として尽力された中本義弘氏が2022年5月に逝去されました。以降、鎌倉亜紀子氏が常任指揮者に就任し、現在に至る。

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